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History|歴史
銀座|昭和40年代
都電最盛期時の案内図|PDFファイル
HISTORY|下町と都電の歴史
9002号車
東京市電|大正12年
歴史の架け橋 レトロ車両
2007年、都電荒川線と沿線地域の活性化のため登場した人気のイベント車両[9000形]。
古き良き時代の[東京市電]をモチーフにデザインされたと言われています。外観のみならず、木目調で統一された内装、間接照明や真鍮の手すりなど、細部にまでこだわりの演出がされています。
機能面では、バリアフリー・省エネ対策など現代人の生活にもマッチしています。
1903|明治36年
東京に路面電車が初めて走ったのは、明治36年8月22日のこと。
もともと馬を使用していた「東京馬車鉄道」が動力を電車に改め、名称「東京電車鉄道」として[品川‐新橋]間にてスタートし、これに続くように「東京市街鉄道」「東京電気鉄道」も相次いで開業しました。
1904|明治37年 [日露戦争]
戦費調達のための臨時増税や、労働者向けの割引運行を行うことで、3社の経営が圧迫。
1905|明治38年
3社の路線合計 :63km
1906|明治39年
3社合併により「東京鉄道」が誕生しました。
京橋|明治38年
銀座|明治36年
銀座|明治43年
1911|明治44年
東京市に引き継がれ「東京市電(市電)」が誕生。次々と主要路線を建設していきました。
民営の「王子電気軌道(現・荒川線の一部)」「城東電気軌道」「西武軌道」も開業し、東京の街に路面電車網が形成されて行くことになりました。
1919|大正8年
営業キロ :138km
1日の乗客数 :108万人
両国橋|明治44年
両国橋|明治44年
両国橋|明治44年
1923|大正12年
関東大震災発生により大打撃を受けるも、9カ月の懸命な復旧作業でほぼ復興。
壊滅した路線の代替えとして、路線バスが登場しました。
関東大震災の被害
車両777両消失、軌道・軌道橋・架線
本局庁舎(有楽町)全焼、車庫5カ所全焼
大正12年
大正12年
1943|昭和18年
太平洋戦争下の昭和17年、民営路線も東京市に引き継がれました。
都政施行により「都電」が誕生
昭和18年、都政施行により管理が東京都交通局へ移り、なじみ深い「東京都電」や「都電」の呼び名が誕生しました。
[最盛期]
1日の乗客数 :193万人
系統数 :41系統
三田|昭和10年代
三田|昭和10年代
[戦後]
太平洋戦争の空襲により、車輌の半数が被災するなど、多大なダメージを受けました。
「都電」の復旧は東京全体の復興にも繋がると考えられ、5年の歳月をかけ完全復旧となりました。
戦災による被害
本局庁舎(有楽町)全焼、12営業所、車輌 602両焼失
車庫5カ所全焼
1955|昭和30年
1日の乗客数 :174万人超
銀座|昭和20年代
東陽公園|昭和20年代
[高度経済成長期]
都市構造の変化と自動車の急増により「都電」の状況は厳しくなってきました。
1959|昭和34年[東京オリンピック翌年]
自動車の都電軌道敷地内への乗り入れが法律で許可され、「都電」は押し寄せる車に呑み込まれるようになりました。
1962|昭和37年
営業キロ :213km
1日の乗客数 :150万人
系統数 :40系統
営業所数 :17カ所
1967|昭和42年
東京都が路面電車の廃止を決定し、1972年(昭和47年)まで6回の撤去計画が実行されることになりました。
これにより、27系統[三ノ輪橋-赤羽]と32系統[荒川車庫前-早稲田]を残し、合計181kmもの都電の路線が東京の路上から消えました。
銀座|昭和40年代
学習院下|昭和40年代
1974|昭和49年
[三ノ輪橋-赤羽]を走る『27系統』の一部と、[荒川車庫前-早稲田]を走る『32系統』は一本化され、唯一の路線「都電荒川線」が誕生しました。
営業キロ :12.21km
1日の乗客数 :5万人
系統数 :1系統(荒川線のみ)
三ノ輪橋|昭和40年代
三ノ輪橋|昭和40年代
[現在]
一旦は激減したシェアも、排ガスが少ないエコでかわいい交通機関として新たな注目も浴びています。
地域住民のみならず、多くの人々に愛されながら、今日も街を走っています。
2017|平成29年
都電荒川線は、都電の魅力を国内外にアピールするため愛称を募集し、投票の結果、4月28日に「東京さくらトラム」に決定されました。
愛称制定後は、「東京さくらトラム(都電荒川線)」と表記されています。
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